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かつて怨霊と恐れられた歴史上の人物たちとゆかりのあるスポット(崇徳天皇・菅原道真・平将門・井上内親王など)

日本史上には強い怨念を持つがゆえに恐れられ、鎮魂のために社が建てられたり、のちに神格化した人物たちがいます。

かつて怨霊と呼ばれて恐れられた歴史上の人物たちとゆかりの深いスポットを紹介します。いずれも霊験あらたかなパワースポットとなっています。

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長屋王(ながやのおう)

日本史上で初めて怨霊と認定されたのは長屋王。長屋王は第40代天皇・天武天皇の孫で、妻のひとりだった吉備内親王は第44代天皇・元正天皇の妹。時の権力者であった藤原不比等からの信認も厚く、政界第二位の地位に就いていました。

しかし下級官僚・塗部君足と中臣宮処東人が流した「長屋王は天皇を呪詛し、国家転覆を狙っている」という虚偽の密告がもとで藤原宇合らの軍勢によって邸宅を包囲され、長屋王は邸宅内で妃の吉備内親王とその子らとともに自害しました。

のちに「長屋王の変」と呼ばれるこの政変の黒幕は、藤原不比等の死後に長屋王と権力闘争をしていた不比等の息子たち(武智麻呂・房前・宇合・麻呂、俗にいう”藤原四兄弟”)でした。

長屋王の死後、藤原四兄弟は流行りの天然痘に罹って相次いで亡くなり、密告した下級官僚も斬殺されます。人々はこれを”長屋王の祟り”と噂しました。時の天皇は長屋王の御霊を鎮めるべく神仏に祈り、長屋王の遺児たちに官位を与えました。

長屋王墓

明治34年に宮内庁が長屋王の墳墓として認定した円墳。ここから歩いて3分ほどの場所に最愛の妻であった吉備内親王の墓もあります。

名称 長屋王墓
住所 奈良県生駒郡平群町梨本字前758 番地
アクセス 近鉄生駒線 平群駅より徒歩7分
⇒関連サイト

長屋王を祀る祠(長屋王神社)

奈良にある「長屋王の邸宅跡地」には小さな祠が建てられており、正式名称ではありませんが”長屋王神社”と呼ばれています。

近鉄新大宮駅の東側の広大な敷地から長屋王家木簡4万点が発掘され、長屋王の邸宅跡地として認定されましたが、現在は巨大商業施設「ミ・ナーラ」が建てられています。ミ・ナーラの前は”イトーヨーカドー奈良店”、その後は”そごう奈良店”が店舗展開していましたがいずれも経営不振で撤退しています。

菅原道真(すがわらのみちざね)

幼い頃より学問や詩歌に優れ、”神童”と呼ばれていた菅原道真。官吏登用試験に抜群の成績で合格したのち政治家としてのみならず学問・漢詩の分野でも一目置かれ、天皇の厚い信認を受けて朝廷の最高職である”右大臣”にまで上り詰めました。

しかし中流貴族の出身である菅原道真の出世を快く思わなかった左大臣・藤原時平によって「天皇の失脚を謀っている」という無実の罪を着せられ、これを信じた醍醐天皇の命により大宰府へ左遷。幽閉同様の扱いを受けた菅原道真は、失意のうちに2年ほどで病死してしまいます。

菅原道真の死後、彼を陥れた張本人である藤原時平が突然死。その後平安京の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貫ら複数の貴族が亡くなる事故が起こります。さらには左遷の命令を下した醍醐天皇とその皇太子が病で亡くなったことが決定打となり、世間は一連の騒動を菅原道真の祟りだと考えるようになりました。

朝廷は菅原道真の地位を回復させた上に太政大臣や左大臣の位を与えたりしましたが、祟りは鎮まらず天変地異が続いたため、ついには鎮魂のために大きな神社を建てました。これがのちの北野天満宮です。

北野天満宮が建立されたのち、次第に祟りは収束。その御は徐々に菅原道真の学者としての功績に目が向けられ、”学問の神様”として崇められるようになりました。菅原道真が”天神さま”と呼ばれるようになったのは落雷を起こしたことが由来。930年に清涼殿に落雷があった日に因み、6月26日は「雷記念日」に認定されています。

北野天満宮

北野天満宮は全国に12,000社以上あると言われている天神信仰の総本宮です。かつて強大なパワーを持った祟りの主として恐れられた菅原道真公も、現在では”学問の神様”としてのイメージが定着し、全国の崇敬を集めています。北野天満宮は学業向上や合格祈願のパワースポットとしては全国屈指です。

名称 北野天満宮(きたのてんまんぐう)
住所 京都府京都市上京区馬喰町
アクセス JR京都駅より市バス50・101系「北野天満宮前」下車
⇒公式サイト

文子天満宮

文子天満宮(あやこてんまんぐう)は北野天満宮の前身神社で、天神信仰発祥の拠点とされています。

創建したのは菅原道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)。菅原公が没した後にお告げを受け、庭に小さな祠を建てたのが始まりとか。これが道真公を祀った最初の神社とされています。

名称 文子天満宮(あやこてんまんぐう)
住所 京都府京都市下京区間之町通花屋町下る天神町400
アクセス 地下鉄五条駅から徒歩5分
⇒公式サイト

太宰府天満宮

菅原道真公をお祀りする天満神社の総本社。菅原道真の直系の子孫が代々宮司を務めています。

天満宮の本殿は”亡骸を牛車に引かせて牛の赴くところに留めよ”という道真の遺言に従い、牛が臥せって動かなくなったので埋葬地とした位置に建っており、明治維新までは「安楽寺」という名の寺でした。現在でも本殿の奥殿に鎮座する菅原道真公の像の真下に御遺骨があります。

本殿の右手には左遷された道真を慕って京都から太宰府まで飛んできたという梅の木や、名物・梅ヶ枝餅のもととなった麹の飯を差し入れして道真を助けた老婆(のちの浄妙尼)を祀る祠など、ゆかりのスポットが満載です。

道真公が左遷された先の太宰府で蜂に襲われた際に、飛来した鷽鳥(うそどり)の大群によって助けられたという逸話があり、凶事を吉に転ずる鷽鳥の御守りやおみくじが人気です。

名称 太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)
住所 福岡県太宰府市宰府4丁目7−1
アクセス 西鉄太宰府駅より徒歩5分
⇒公式サイト

平将門(たいらのまさかど)

日本三大怨霊の一人に数えられている平将門(たいらのまさかど)。

平将門は平安中期に強大な勢力を持っていた豪族です。関東の八つの国府を襲撃し、国司(行政官)を追放して新国家を打ち立てようとしました。

平将門の活躍は国司の圧政に苦しめられていた関東の人々からは大歓迎されましたが、朝廷は将門を逆賊とし、討伐隊を送りました。2か月ののちに平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が率いる討伐隊によって討ち取られた平将門の首は京都の河原で晒されました。

晒された首は何か月も目を開けたままで、夜ごと歯ぎしりをしたという話もあり、京の都は将門の怨念の噂で持ちきりになったと言われています。

将門塚(しょうもんづか)

将門の首は京都の河原から関東へと飛んで行ったという伝説があり、その首が祀られていると伝わるのが東京・大手町の将門塚(しょうもんづか)です。

俗に”将門の首塚”とも呼ばれているこの塚はいわくつきの場所として有名。関東大震災後に首塚の敷地内に大蔵省の仮設庁舎を建てたところ、大蔵大臣らが次々と亡くなったという話や、戦後に塚の撤去を試みたGHQの重機が転倒して死者が出た話など枚挙にいとまがなく、ビル群の間に現在も移設されることなくひっそりと残されています。

名称 将門塚(しょうもんづか)
住所 東京都千代田区大手町1丁目2−1
アクセス 東京メトロ大手町駅から徒歩3分
⇒関連サイト

崇徳天皇(すとくてんのう)

日本三大怨霊の一人に数えられる崇徳天皇(すとくてんのう)。3歳で第75代天皇として即位しながら、20歳で譲位を迫られて上皇となり、権力闘争の渦に巻き込まれた末に天皇という身分でありながら配流にまでなった不運な人物です。

配流先で仏教に傾倒した崇徳天皇は、写本の寺への納経を後白河天皇から断られた上に送り返されたことに激怒。舌を噛み切った血で写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き込み、以後は爪や髪を伸ばし続けて夜叉か天狗のような姿になって崩御したと伝えられています。

崇徳天皇の死後13年ほどして、政敵だった藤原忠通や写本を送り返した後白河天皇の周囲で相次いで死者が出たのを皮切りに、大火や政変が立て続けに起きたため、崇徳天皇怨霊説が急浮上。怨念を恐れた後白河天皇は崇徳天皇の名誉を回復させた上に崇徳院廟を建ててその御霊を弔いました。

強い怨念を持つとされる崇徳天皇ですが、配流先の讃岐国では四国全体の守り神として崇める風潮も生まれました。のちに四国の守護となった細川家は、崇徳天皇を守護神とすることで家督が安泰したと言われています。

白峯陵(しらみねのみささぎ)

香川県の白峰寺(しろみねじ)には崇徳天皇の墓所・白峯陵(しらみねのみささぎ)があります。白峯陵は四国で唯一の、宮内庁が認めた天皇陵です。

名称 白峰寺(しろみねじ)
住所 香川県坂出市青海町2635
アクセス JR坂出駅より車で20分
⇒公式サイト

白峯神宮(しらみねじんぐう)

崇徳天皇の御霊を四国の白峰寺から京都へ帰還させるべく孝明天皇が立案し、その遺志を継いだ息子の明治天皇によって創建されたのが白峯神宮です。崇徳天皇・淳仁天皇を御祭神としており、「崇徳上皇僧形座像図」を所有しています。

境内地が和歌・蹴鞠の公卿宗家「飛鳥井家」の邸宅地跡であることから、現在ではサッカーの聖地として知られています。

名称 白峯神宮(しらみねじんぐう)
住所 京都市上京区今出川通堀川東入飛鳥井町261番地
アクセス 市バス「堀川今出川」下車すぐ
⇒公式サイト

安井金比羅宮

京都の東山にある安井金比羅宮は崇徳天皇を主祭神として祀っている神社です。かつて崇徳天皇が俗世と決別すべく祈願した神社だと言われており、悪縁切りの強力なパワースポットとして知られています。

名称 安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)
住所 京都府京都市東山区下弁天町70
アクセス 京阪本線 祇園四条駅から徒歩10分
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崇徳天皇御廟(粟田宮)

祟りを恐れた後白河天皇が春日河原に造らせた「崇徳院廟」(のちの粟田宮)。現在は廟は無く、京都の繁華街・祇園の中心に石碑だけが立っています。

名称 崇徳天皇御廟(すとくてんのうごびょう)
住所 京都府京都市東山区祇園町南側
アクセス 市バス「東山安井」下車 徒歩2分
⇒関連サイト

井上内親王、他戸親王、早良親王

井上内親王(いのえないしんのう)と息子の他戸親王(おさべしんのう)、そして死後に崇道天皇となった早良親王(さわらしんのう)は、いずれも桓武天皇の命により命を落とし、怨霊となったと噂された人物です。

井上内親王は第49代光仁天皇の皇后、他戸親王はその息子で皇太子でしたが、二人とも呪詛の濡れ衣をかけられて皇位とされた上、幽閉先で母子同時に謎の死を遂げました。

また桓武天皇の皇太弟だった早良親王は、暗殺事件に関与した嫌疑をかけられて廃位され、無実を訴えて絶食した末に憤死しました。

三名の死後に疫病や天変地異が多発し、皇室も含めて関係者が相次いで死亡したため、祟りを恐れた桓武天皇が名誉回復や追号を行い、鎮魂のために陵墓や神社を建てています。

御霊神社(ごりょうじんじゃ)

桓武天皇の命により奈良・五條市に建てられた御霊神社は井上内親王・他戸親王・早良親王を祀る神社です。御霊神社本宮とも呼ばれています。

また魂を鎮める場所として建てられた神社だけに、心を鎮める・ストレスを解消するご利益があるとも言われています。

なお、御霊神社はのちに分社を繰り返したため、現在では奈良および京都の各所に23社の御霊神社が存在します。いずれも井上内親王・他戸親王・早良親王のいずれかの御霊を主祭神としています。

名称 御霊神社 本宮(ごりょうじんじゃ ほんぐう)
住所 奈良県五條市霊安寺町2206
アクセス 市バス「東山安井」下車 徒歩2分
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下御霊神社(京都)

早良親王をはじめとした八座の御霊を祀る神社。創建は桓武天皇。

名称 下御霊神社
住所 京都府京都市 中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町
アクセス 市バス「河原町丸太町」下車 徒歩3分
⇒関連サイト

上御霊神社(京都)

井上内親王・他戸親王・早良親王を含む八座の御霊を祀る神社。創建は桓武天皇。

名称 上御霊神社
住所 上御霊前通烏丸東入
アクセス 市バス「烏丸鞍馬口」下車 徒歩3分
⇒関連サイト

湯島御霊社(東京)

上御霊神社から分霊し、東京に建てられた御霊神社。井上内親王・他戸親王・早良親王らを祀っています。

名称 湯島御霊社
住所 東京都文京区湯島2丁目11−15
アクセス 御茶ノ水駅より徒歩9分
⇒関連サイト

崇道天皇社

奈良町にある崇道天皇社は、桓武天皇の遺志を継いだ息子の平城天皇が早良親王の御霊を鎮めるために創建した神社です。

桓武天皇の代のみならず平城天皇の代にまで影響を及ぼした早良親王だけにその霊験はあらたかで、一心に祈願すれば強大な加護を得られると言われています。

名称 崇道天皇社
住所 奈良県奈良市西紀寺町40
アクセス JR京終駅より徒歩10分
⇒関連サイト

まとめ

以上、日本史上で怨霊と呼ばれて恐れられた人物たちとゆかりの深いスポットを紹介しました。

共通して言えることは、かつて怨霊として畏怖の対象となった人物たちがいずれも神格化されることで霊験あらたかな存在として現代に伝えられていることです。長い年月を経ることで怨念というイメージが薄れ、中には怨霊と言われていたことすら忘れられつつある人物もあります。

それぞれに深い歴史を持つパワースポットなので、時代背景や人物像を理解した上で、厳かな気持ちで祈念することが大切です。

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この記事の執筆者:GAJACO(がじゃ子)
何かを集めるための旅行、コンプするための旅行が好きなスマホ写真部。旅行に位置ゲーは欠かせません。ポケGOはもちろんのこと、ムーミンムーブ、ピクミンブルーム、信長の野望、モンハンNOWなど浅く広く楽しんでます。
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