天下の名城で世界遺産にも認定されている姫路城に行く前に知っておきたい情報を一挙公開。これを知らずに出かけていくと後で後悔するかもしれません。
目次
姫路城は何県?
姫路城は旧・姫路藩の拠点。播磨の国・姫路藩は、現在の兵庫県西南部を治めた藩です。したがって姫路城は兵庫県に属しますが、歴史を遡れば兵庫県姫路市のお城といえます。
播磨の国には姫路藩以外に山崎藩・安志藩・三日月藩・林田藩・三草藩・龍野藩・小野藩・赤穂藩・明石藩・福本藩・新宮藩・姫路新田藩・平福藩があり、それぞれに城がありました。
姫路城の城主は?
人気の時代劇シリーズ『暴れん坊将軍』で姫路城がよく登場するため、徳川吉宗が関わっていると思われがちですが、徳川家が城主であったことはありません。
歴代城主で最も有名なのは黒田官兵衛⇒羽柴秀吉⇒池田輝政のライン。その後は譜代大名の間で藩主が転々。
年代 | 城主・備考 |
---|---|
1346~ | 赤松則村の次男、赤松貞範が姫山に築城。(姫山城) |
1349~ | 赤松貞範が庄山城を築城して移り、赤松氏一門の小寺頼季が城主に。 ⇒景治⇒景重⇒職治 |
1441~ | 小寺職治が戦で討死し、山名持豊が城主に。(実質の城代は家臣の太田垣主殿佐) |
1467~ | 赤松一族の赤松政則が城代になり、本丸・鶴見丸・亀居丸を増築。 |
1469~ | 赤松政則が置塩城に移り、一門の小寺豊職が城代に。 ⇒政隆⇒則職 |
1531~ | 小寺則職が御着城に移り、留守居役で家臣の八代道慶が城代に。 |
1545~ | 小寺家家臣の黒田重隆が城の管理を任され、その後息子の職隆が城代に。 ⇒孝高(黒田官兵衛) |
1580~ | 羽柴秀吉が播磨進駐の折、黒田重隆から献上された姫山城に入城。近代城郭へと大改修したのち姫路城に改名。 ⇒秀長(秀吉の弟)⇒木下家定(秀吉の義兄) |
1600~ | 織田信長の重臣・池田恒興の次男・輝政が、関が原の戦いでの功績により姫路藩初代藩主として入城。8年間の大改修で現在の姿に。 ⇒利隆⇒光政 |
1617~ | 幼少だった池田光政に代わり、徳川四天王の本多忠勝の子、忠政が入城。 ⇒政朝⇒政勝 |
1639~ | 徳川家の重臣・奥平信昌の四男・松平忠明が藩主として入城。 ⇒忠弘 |
1648~ | 結城秀康の五男・松平直基が藩主に任命されたが、任地への移動中に死去。長男の直矩が家督を継いだが5歳だったため国替。 |
1649~ | 徳川四天王・榊原康政の孫・松平忠次が藩主として入城。 ⇒政房⇒政倫 |
1667~ | 成人した松平直矩が姫路に復帰し、入城。 |
1682~ | 徳川光圀の甥・本多忠国が藩主として入城。 ⇒忠孝 |
1704~ | 榊原政邦が藩主として入城。 ⇒政祐⇒政岑⇒政永 |
1741~ | 松平明矩が藩主として入城。 ⇒朝矩 |
1749~ | 酒井忠恭が藩主として入城。 ⇒忠以⇒忠道⇒忠実⇒忠学⇒忠宝⇒忠顕⇒忠績⇒忠惇⇒忠邦(大政奉還) |
頻繁に城主が代わった城として知られる姫路城。
2019年公開の映画『引っ越し大名』のモデルで、生涯7回に渡る国替えを経験した松平直矩の移封先の一つでもあります。
営業時間、料金、アクセス方法は?
姫路城はJR姫路駅からまっすぐ歩いて20分かかります。下の写真で真ん中に小さく見えているのが姫路城。
歩くのはそれなりに大変なので、姫路市が運営する城周辺観光ループバスに乗って5分で行くほうが楽です。
車で行くなら、播但連絡有料道路 花田ICで下りて20分ほどです。
主な駐車場は次の通り。
・城の北駐車場(30分無料、1時間200円~)
・姫山駐車場(3時間600円~)
・大手前公園地下駐車場(30分200円~)
駐車場の詳細情報は姫路市まちづくり振興機構のウェブサイトで確認できます。
姫路城の入城料は一般 1,000円 / 小中高生 300円。姫路城・好古園の共通券は1,050円/360円になります。
姫路城 | |
所在地 | 兵庫県姫路市本町68 |
営業時間 | 午前9時00分から午後4時00分まで(閉門は午後5時00分) ※夏季(4月27日から8月31日)は午前9時00分から午後5時00分まで(閉門は午後6時00分) 12月29日・30日は休館。 |
入城料 | 一般 1,000円 / 小中高生 300円 |
アクセス | JR姫路駅から徒歩20分 あるいは観光ループバスで5分 |
⇒公式サイト |
姫路城の見どころは?
姫路城の敷地はとても広く、戦火を免れて遺された建物も多いので見て回るのが大変なほどです。その中でも特に見逃したくないポイントについてまとめました。
千姫のいる化粧櫓
徳川秀忠と継室・お江の娘で豊臣秀頼、本多忠刻の正室だった千姫。ドラマや映画によく登場する彼女の居所であった姫路城内には休息所として使われた化粧櫓があります。
化粧櫓内には千姫の人形が設置されており、当時の様子を偲ばせます。
天守閣最上階の刑部神社(おさかべじんじゃ)
姫山にもともと建てられていた刑部神社(長壁神社)は姫路城の守護神。天守閣最上階にあります。
名を伏せて姫路城で奉公していた宮本武蔵が、その身から発する胆力だけで天守に棲み付く妖怪どもを退けた際には、姫の姿をした刑部明神が現れて褒美の刀を手渡したという言い伝えがあります。
播州皿屋敷のお菊井戸
夜な夜な「一枚、二枚・・・」と皿を数えるお菊の幽霊の話で有名な「皿屋敷」は江戸の番町(ばんちょう)だけでなく、播磨の国・播州(ばんしゅう)にも存在します。
姫路城のお菊井戸は姫路城内の広場にあります。
『播州皿屋敷』の物語は、城主・小寺則職の家臣の命により下女として城内に入り込んだお菊が、悪徳執権による城主暗殺の企みを未然に防いだが、正体を知った執権の家来が家宝の皿を1枚隠してお菊に罪をかぶせ、責め殺して井戸に投げ込んだというもの。
その後、夜になると井戸の中から皿を数えるお菊の声が聞こえるようになるなど怪異が続き、執権たちは身を滅ぼしたとか。
後に話を聞いた城主・則職はお菊の忠節を讃えて城内にお菊大明神を建立したとのこと。
城普請・桜井源兵衛の自害
備前門を入ったところにある広場(備前丸)から見る姫路城は、見る人によっては東南の方角に少しだけ傾いているように見えるのだとか。
実際のところ、今は傾いていないのですが、完成した当時は傾いていたことが修復時の調査でわかりました。
池田輝政による姫路城築城の際、城普請の大工の棟梁・桜井源兵衛は、完成した9年の歳月をかけて完成した姫路城が実は傾いていることに気づきます。
自分の妻にも見てもらったところ「惜しいことに少し傾いていますね」との返答が。誰の目にも傾いているのがわかるのだと観念した源兵衛は、のみを口にくわえて天守から身を投げたと伝えられています。
傾きの原因は石垣の沈下によるもので、設計の不備ではなかったことが現在では明らかになっています。
石垣の姥が石
羽柴秀吉が築城の折、石垣をつくるための石がなかなか集まらず思案していたところに、城下で煎餅屋を営む貧しい老婆が「せめてもの足しに」と石臼を献上。これに喜んだ秀吉が石臼を石垣に用いた話が世間に広まり、人々が競って石を寄進し、無事に石垣が完成しました。
西大柱の柱継ぎ
天守の三階で見られる西大柱と東大柱。東大柱は地下から5階まで通っている1本柱ですが、西大柱は上下2本の巨木を継いでいます。
この片方だけの柱継ぎが実は古の匠の技で、二本とも1本柱を使用したのでは天守の建造に不具合が生じるのだとか。これは昭和の大改修の際に明らかになったことです。
大改修の担当者たちは当初、腐食した西大柱を交換する際に1本の木を使う計画を立案。苦労して見つけた木曽の檜を1ヶ月かけて運び出したところ、運搬中の事故で巨木が二つに折れました。
しかたなく急遽用意した別の巨木と繋ぎ合わせて西大柱にすることにしましたが、修復工事を進めていくうちに、一本柱だったら三階より上の部分の梁を通す際に不具合が生じていたことがわかったといいます。
宮本武蔵 幽閉の間
三階には宮本武蔵が3年もの長きにわたり幽閉されていたという「開かずの間」が残されています。普段は開きません。
乱暴者の武蔵は18歳から21歳までの3年間、沢庵和尚により「開かずの間」に閉じ込められ、そこで3年間反省と読書と思案の日々を過ごしました。読書によって性根を入れ替えた武蔵を見て、時の城主・池田輝政は宮本という姓を与えたとされています。
これは吉川英治の小説「宮本武蔵」に登場するフィクションですが、2003年の大河ドラマ「武蔵MUSASHI」放送後の一時期は開かずの間が一般公開されていたことも。
石垣の刻印
姫路城の石垣には謎の刻印が付けられた石がいくつも見られます。桜門(大手門)の横の「斧の刻印」、化粧櫓下東面の「五芒星の刻印」、備前丸から見る石垣の「卍の刻印」などが知られています。
石不足に悩まされていた職人たちが盗難を避けるために印をつけたのではないかと言われています。
るの門
姫路城の天守への道のりは「菱の門」から入って「いの門」「ろの門」「はの門」をくぐりながら進むのが普通ですが、敵にはわからないように造られた「るの門」(穴門・孔門)を抜けると「ぬの門」「りの門」「備前門」を通って最短距離で天守へ行けるようになっています。
石垣の間に造られた「るの門」は菱の門から見えないように絶妙な角度で設けられています。
ぬの門のハート石・人面石
石臼や墓石、石棺などさまざまな石が使われていることでも知られる姫路城の石垣。ぬの門の横の石垣にはハートの形をした石があり、幸運のパワースポットとして人気です。その横には人の顔の形に並べられた石(鏡石)もあります。
まとめ
姫路城は日本で最初に世界遺産に認定された名所であり、戦争で焼かれずにその姿を後世に遺した価値ある巨城です。それだけに見るべきところはたくさんあり、一度や二度の訪問では全部を廻ることはできません。
限られた時間で効率よく見学したい人は、事前にいろいろと下調べをしてから訪れたほうがいいと思います。